普通であることの勇気 Part.2
芸術に関するシンポジウムで、「障害者で芸術に優れている人は展示会などで発表している。では、特に目立った才能のない障害者はどうか。」というような議論になった。そのときに面白いと思ったのは、「展示している内容は、決して芸術性に優れているからという理由ではない。ある日常を切り取っただけだと。普通とか普通じゃないとか、能力があるとかないとかの議論ではない」と。そこで、いったん議論は中断されたが、私の中で、気になった議論だった。
芸術について素人である私は、障害者アートというと、何だか、障害者の中でも芸術的能力に秀でている人の発表の場と考えてしまう。でも実際は違うようだ。日常のささいな表現そのものがアートであり、これは、健常者も障害者も変わらないと思う。
パラリンピックはどうだろうか。障害者で、スポーツに秀でている人が頑張ってパラリンピックに出る。そのことは否定しないし、素晴らしいと思う。感動する。ただ、パラリンピックに限らず、オリンピックを見ていると、何だか、自分もナンバーワンになるために頑張らなければならないようなお尻を叩かれている錯覚に陥るのは私だけだろうか。
ナンバーワンになれなくても良い。オンリーワンになれば良い。
もっと言えば、普通でいいのだ。
何かを特別視したいのがこの世の中だ。健常者も障害者も何か頑張らなければいけないのか。子どもたちも何か才能を身につけなければならないのか。すべてが、資本主義社会の競争にのまれて行く。
不登校になった子どもたちは、学校に行けなくなった時点で、「私の人生は終わった。」「僕の人生は終わった。」と考えると話す。10代20代の若者だ。「自分の未来は真っ暗だ。」と将来の不安について語る。
ある女性は語った。「海外の旅を終えて、日本に帰ってくると窮屈さを感じるんです。みんなちゃんとしてるじゃないですか。」
日本は、経済的豊かさを手に入れたにも関わらず、精神的な豊かさからは遠ざかっているようだ。
ありのままの自分で良い。普通であることの勇気。特別ではなくて良い。ただ自分の存在を受け入れる。その存在の中に十分に素晴らしいものがあるのだ。人と比較するのではなく、自分の夢をあきらめないで欲しい。欲しい未来は自分で創れるのだ。