普通であることの勇気
先日、講演で、「発達障害は未発達ではなく過発達であり、進化した人類である」という発言をした後で、「それは、発達障害を特別視しているのではないか。」とご意見を頂いた。
私が伝えたかったのは、特別視ではなく尊重である。その詳細を、以下に話そう。
発達障害というと、天才とかインディゴチルドレンとか、クリスタルチルドレンとかと特別視してしまう傾向がある。
例えば「うちの子は、クリスタルチルドレンだから、まわりと違っているの。」と言う理由で、走り回って周りに迷惑をかけている子どもを野放し状態にしていたらどうだろうか。
私が伝えたかったのは、Rくんのような存在を特別視しているわけではない。一人の人間として尊重しているだけである。生きづらさを抱えて、社会の中で生きている。その中で、障害者を守らなければいけない存在であると、上から目線で、一方的に見るのでもなく、才能を特別視してまつりあげるのでもない。ただ、お互いフェアな存在として認め合いたいのだ。彼らの中に、得意な点もあれば、苦手な点もある。私の中に、得意な点もあれば、苦手な点もある。その中で、彼らの得意な点、素晴らしい点は気づかれにくい。特に、社会の枠組みを重んじる大人社会では軽視されがちである。それゆえ、私は強調した。誤解があったら申し訳ない。
アドラー心理学では、褒めることを否定している。褒めるという行為は、上から目線なのだ。他者への評価はプラスにせよ、マイナスにせよ、上から目線なのだ。だから、障害者に対して、「かわいそうな存在」として捉えるのも、「天才で特別である」と捉えるのも評価であり、上から目線なのだ。
そうではない。お互いの尊重が大切だと思う。お互いを認め合ってこそ、生きづらさの先に咲く未来があるのだと思う。