私が医者である意味
「私、医者であることにこだわらないで生きようと思う。」
Nちゃんは即答した。
「先生、他のこだわりを捨てても良いですが、医者であることには、こだわって頂きたいのですが。」
その通りだ。
私は、医者になりたくて、大学受験をし、医師国家試験に合格し、研修医となり
そして、病院に勤め、そして開業したのだ。
つい最近38歳になったが、もう既に、人生の大半を医療に捧げている。
しかし、日々の診療で、どうしても自分の生き方に矛盾を感じざるを得ない。
私のやりたいことは、医者なのか?
私の迷いは、こうだ。
「先生、私の頭痛治りますか?」
と患者さんに言われる。
いろんなアプローチで医療を提供する。生活習慣の改善も含めて提案した。
そして、次に会ったときに、
「先生、頭痛治らないんです。」
その時、医者のとる行動は以下のいずれかであろう。
1、何となく聞き流して、その場限りの診療をする
2、生活習慣で改善していない点を促す
3、自分の診療の質を吟味する
1は避けたい。2、そして3を実行する。
「私の診療技術と知識が未熟なのではないか。」
このことを突き詰めると自責の念が高まる。私の経験不足で患者が治らないのではないか。
本を読んだり、先輩方に知恵を借りたり
様々な勉強会や研究会に参加して、知見を広げる。
そして、また別のアプローチをする。
それでも、患者さんは
「頭痛は治りません。先生に注意されましたが、砂糖はやめられないんです。だって、ストレスがよけい溜まります。どれくらい制限すれば良いのですか。そして、頭痛がひどいと、つい頭痛薬を飲みます。だって、動けないんです。」
と言う。
その時、私は、とてつもない無気力感に襲われる。
そして、おそらく、患者さんの出す結論は、こうだ。
「あの医者に行っても、頭痛は治らなかった。」
これは、実は,病院勤務時代と何も変わらない。
医療という仕組みが依存を作り出す。
こちらが提供するツールが西洋医学から統合医療にシフトしても
結局のところ依存体質は変わらないのだ。
診療の質を吟味して、その質を上げ、難病を治せるようになりたい
という医者としての夢はある。
私が理想とする統合医療を実践する先生方は、
今までの常識では考えられないが、がんやリウマチなど
難病と言われる病気に立ち向かい、結果を出している。
自分も勉強して、その先生方たちには近づきたいと思っている。
頭痛に関しても、私が気づいていない根本原因があるのかもしれない。
一方で、日本人の医療への依存体質を変えて行きたい。
病気は医者が治すのではなく、患者が治すのだ。
ここに矛盾が生じるのだ。
私が医者として、治療法にこだわればこだわるほど
患者の医療依存体質を強化してしまうように感じる。
以下のいずれも医療依存だ。
「私は、どうして頭が痛いのかしら。どの医者に行っても治らない。」
「あの医者にかかれば、治る。だから、他の医者にはかからない。」
私は二つのいずれも望んでいるのではない。
究極的には、やはり、脱医療計画。
みんなが、健康づくりを学ぶ場を提供して
子どもから大人までが、自分で学び、お互いが癒し合い
医者要らずの健康生活を送れることなんじゃないか。
病院ではなく、町で、家庭で健康の基礎が作られる。
そして、いざと言う時に、医療が手を差し伸べる。
でも主体は本人である。
私は、そんな健やかな社会作りに貢献して行きたい。
そのために、私は、医者である必要があるんだろうか。
もう少し考えてみたい。