建前と本音
先日、アーツ前橋のシンポジウムを聴講していた際に議論となった。
「生きづらさ」を抱えている人たちは、コミュニケーションの手段が限られていて、うまく人とつながれない。
だから、アートがコミュニケーションツールになって表現方法が増えることで
生きやすくなるのではないかという議論があった。
そういう面でアートの役割は大きいと思う。
一方で、「生きづらさ」について、コミュニケーションの手段だけで議論するのは不十分だと思う。
コミュニケーション能力に長けている人が、生きやすいのだろうか。
コミュニケーション能力に長けているとは、状況に合わせて、言葉を選んだり
本音を言っていい場所とそうでない場所を巧みに使い分けられるということを含むだろう。
とするならば、私は、コミュニケーション能力に長けていない。
先日、Nちゃんに言われた一言。
「先生、うそつけないですよ。すぐ顔に出ますものね。」
あ、そうだったのか。表と裏を使い分ける器用さを持ち合わせていないので
いつでも私は本音で正直に生きている。
旦那さんを選ぶときも、正直で素直でうそをつけない人という基準だった。
友人に、笑顔でYESと言われたのに、後で、本音は違ったと知ったときに傷ついた経験がある。
その場でNOと言われる時よりも、ずっと傷つく。
ただ、NOと言うのはとても勇気がいる。表面的なことだけ考えたら、その場はYESと言って切り抜けた方が楽である。
でも、本当に相手のことを考えたら、その場でNOと言ってあげた方が良いことも多い。
もし、大人になるということが、TPOを使い分けたコミュニケーション能力を身につけるということであれば
私は子どものままでいたい。
幸い、私のまわりには、本音で語ってくれる人ばかりである。
みんなが本音で話し合える社会であれば、「生きづらさ」は軽減していくと思う。