仲間を選り好みする

数日前に、「空気を読まない」ことについて書いた。

人とのコミュニケーションでは、相手に空気を読んで欲しいとか、自分が相手の空気を読もうとし過ぎてしまうと、お互いに消耗してしまう。

空気に依存し過ぎず、言葉で確認し合うことを大切にした方が良いのだろう。

そうでないと、私のように、引きこもり傾向となり、人との付き合いが狭小化する。

引きこもり傾向の私とは言え、日々成長を心がけている。その一つが、空気をあえて読まない訓練だった。

ところが、このことを書いて、やはり違和感があった。「空気を読む」とニュアンスが近い二つの言葉がある。

1、察する

「空気を読む」とは、日本の「察する」文化に由来しているのではないかということだ。相手のことを思いやり、察する。このことは、とても大切なことである。つまりは愛情だ。

海外に行って思う。誰も自分の思いを察して欲しいという感じではなく、言語で表現しなければ、それはなかったものとして扱われる。

しかし、日本では、人の機微を大切にする。非言語文化が発達しているのだろう。そんな思いやりの文化は残していきたい。

2、勘を働かせる

どんな仕事でも、「勘を働かせる」ことが必要ない職場というのは存在しないのではないかと思う。私は、研修医として病院で働いてから、今まで15年間。予想して動く、勘を働かせて準備する、というのを大事にしてきた。

空気を読まないことと、勘を働かせることは矛盾しないのだろう。

日々の診療でも、第六感的なことはとても大切にしている。患者さんと話していても、ふと思い浮かんだ単語やフレーズ、事柄は、なるべくその場で伝えるようにしている。

勘が閉じる時がある。それは、批判的な人が診察室にいる場合である。

例えば、診察室に入ってきた患者さんやその家族が、私の診療方針に対して批判的視点を持っている、もしくは怒りを抱えている場合、なぜか私の感覚は閉じてしまう。幸か不幸か、一瞬にして気づく。

そんな時は、無理しない。結論は出さないことにしている。

昔は、結構、相手の怒りに触発されて、その場で議論することが多かった。しかし、堂々巡りになって、結局お互いに消耗することが分かった。だから、最近では、先に土俵から降りることのしている。

 

このように、「察する」とか「勘を働かせる」というのは、分かりにくい文化である。それゆえ、教えるのが難しい。だからこそ、「察することができない人」「勘が働かない人」というのは私は苦手だ。それゆえ、私は、一緒に働く人、仲間、親友は、全てこの感覚を持っているかどうかの基準で選んでいる。

時々、感覚が鋭過ぎる仲間に、びっくりさせられることがあるが。

もちろん、苦手だからと言って社会的に付き合わないということはない。昔は、そのような人とは付き合えなかったので、随分と生きづらかった。今では、相手に期待し過ぎず、そのような人もいるのだと受け入れることができるようになった。

それでも、私は、かなりの変人で、仲間を選り好みすることが今の年になってよく分かった。そうすると、私の周囲に集う人は、究極的に変わった人なのかもしれないが(笑)。