イチローの引退会見
最近、昔の自分をよく思い出す。
春は、センチメンタルな気分になるのかもしれない。
2年ほど前に、前橋から太田にやってきた。
前橋で開業して、太田に来たばかりの頃、恥ずかしい気持ちでいっぱいだった。
なぜならば、前橋の住宅街の一軒家を借りて、ひっそりと診療していた時から、急に、太田市のど真ん中で大きな看板を掲げて、クリニックを開業した。
そして、自分が提供している医療は、自分なりに道理を持って始めたが、現代医療からすると非常識な部分もあるため、人から批判されるのではないかと言う不安でいっぱいだった。
だから、自分は怪しい医者ではないと、歯を食いしばって、エビデンスとやらにしがみついたり、一生懸命認めてもらうために、セミナーや講演会で喋ったりして、今から思えば、他人軸そのものだったのかもしれない。
先日、イチローの引退会見を見て、ものすごく勇気付けられた。質問に答える形式にも関わらず、駒は常にイチローにあった。質問に答えない自由もあった。そして、正々堂々としていた。他人軸ではなく、自分軸で終始、話していた。
他人にどう思われようとも、自分のプロ野球人生を自分が納得がいく形で送り、これからどんな人生を送っていくかも、自分自身のものであると言う覚悟がみなぎっていた。
それをみたときに、私は、まだまだ自分の覚悟が足りなかったのかもしれないと思った。
患者さんを目の前にした時に、判断すべくは、この人にとって、最善の治療は何か。
身体に負荷のかかる検査や治療は最小限にして、自然治癒力を最大限引き出すことは可能だろうか。
今のこの人の意識に響く言葉は何だろうか。
そんなことを考えて、日々、診療をしている。2年前から比べると、より精度を上げて、質の高い医療を提供することができるようになった。そして、多くの人のために立っていると自負している。
しかし、医者の頭の中は、こんなこともよぎるのだ。
この検査や治療をしたら、他の医師から批判され、万が一のことがあったときに、賠償請求されるのではないだろうか。
病院に勤務していた頃、万が一のリスクを回避するために、ものすごく過剰な検査をし、薬を出して来た。もちろん、それで助かった人もたくさんいる。
しかし、本当にこの人のことを優先したいただろうか。
万が一がほとんど起こらないにも関わらず、多くの検査にお金と時間と労力を費やしていたのではないだろうか。
判断基準に、社会的規範と市場的規範があるとすれば、市場的規範が大きかったのだろう。
医療とはそういう基盤の上に成り立っているのは否めない。
しかし、人が本当に幸せに生きるのをサポートする医療が存在するとすれば、リスク回避にエネルギーを割くことに何の意味があるだろうか。
イチローの記者会見を聞いて、改めて覚悟した。
医療の概念そのものを変えて、人の命をサポートする医師であり続けよう。
そんな覚悟を、3月30日の講演会ではお話ししたい。