障がいという枠組み

先日、ぐんまHHC事務局での雑談の中で、
スクールカウンセラー佐伯幸子先生の話は印象的だった。

「私、手話を学んだんです。」
から始まった。
昔は、ろう学校で、手話は禁止されたそうだ。
1993年、文部省が
「聴覚障がい児のコミュニケーション手段に関する調査研究協力者会議」
の報告の中でその必要性を発表し、
徐々に、ろう学校で、手話を教えるようになったと言う。

【なぜか?】

耳が聞こえずに発声できない障がい者のための教育が、
健常者に近づけるためだったと考えられます。
手話ではなく、発声方法や会話法を教える教育が主体だったと。

ちょうど、同席していたIT社長山根洋平さん。
僕は、IT教育の必要性を考え、ろう学校に行って、
意見を伺ったことがあるのだと。
その時に、女学生が電車の中でちかんに会って、声を出せなかったために、
我慢するしかなかったというエピソードを聞いたそうだ。
山根社長は、表現の手段として、ITがあれば、スマホを使って、
警報アプリなどを共有している周囲の人がその合図に気づくような
仕組みが可能である。

と訴えた。

そして
愛を持って、発声練習を教えて、声が出るように頑張ることも大切ですが
一方で、障がい者の表現の手段を増やすことだって大切なんです
と力説した。

耳が聞こえなくて、発声がうまくできない人たちが、
発声練習を一生懸命するよりも、
自分に合ったコミュニケーションツールを身につける方が
大切ではないだろうか。
その一つに手話があり、ITがある。
手話ができる健常者をもっと増えれば、
手話コミュニティを広がり
お互いが、生きやすいのではないだろうか?

最先端のIT技術の恩恵を受けて、
表現の手段が増えれば、もっと楽しい。

これこそが、社会の枠組みから考え直す作業だと思う。

【発達障がいについて】

ろうあ者の問題と全く同じことが言える。
多動の子どもたちを、じっと机の前に座らせて勉強させて、
定型発達者と同じ教育をさせる必要はないと思う。
動き回っても学べる手段、仕組みを提供すれば良いと。

選択肢は多ければ多いほど良い。
皆が、同じ手段で同じ事を学ぶ必要はないのではないだろうか。

もう一度、皆で障がい者を受け入れた社会の枠組みを考え直してみよう。

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