コミュニケーションは十分必要だが、緊密である必要がない
ある朝、ぐんまHHC事務局のMさんからメールが来た。
「サヤカ先生!私たちのやりたいことが書いてあります!ぜひ、読んでください!」
早速、アマゾンで本を取り寄せた。
その中で自殺者が少ない地域の特徴が紹介されていた。
「コミュニケーションが多いが緊密ではない。」
衝撃的な事実が書いてあった。
自殺者が少ないというと、お互いが助け合い、お祭りや募金などには熱心で
思いやりがさぞ多い地域だと想像するが
そうではないらしい。
困っている人がいたら、できることはする。できないことは、人に相談する。
雨が降って来たら、隣の洗濯物も取り込んで家に入れておく。
かといって、毎日顔を合わせて、井戸端会議をしているわけではない。
道で顔を合わせたら、あいさつをする。
お互いの多様性を認めて、尊重する。
生きづらさを抱えた者たちは、努力と根性で人に合わせるのではなく
お互いが、生きやすくなるように工夫をする。
一方で、コミュニケーションが緊密である田舎で自殺者が多い地域があるらしい。
コミュニケーションが密であると、同じであることを求められる。
祭りは出なくてはならない。意見を合わせなくてはならない。
そうするとどうなるか。
同じで居られない者たちは、排除されてしまう。
洗濯物を取り込むのを手伝う家もあるが
あの家には誰も取り込みに行かない というのが起こる。
そういう孤立した人が自殺にまで追い込まれる。
これを読んで、サヤカ・クリニックで、スタッフと共に働きやすい理由が分かった。
みんな、仕事が終わったらさくっと帰る。飲みたいときには飲みに行く。強制ではない。
決して、毎日、終わった後、だらだらと話をしてコミュニケーションを密にしているわけではない。
でもお互いが助け合って生きている。
クリニックの中で、自分ができることはする。
トラブルは現場で起こる。
現場で、それぞれが判断して迅速に動く。
できないことは、人に聞く。
すぐに院長の判断が必要な時は、声をかけてくれる。
そうやって調和が保たれている。
ぐんまHHCのメンバーもそうだ。
この半年で、5回の講演会(100-150名)を企画運営したが、
事前ミーティングは数えるくらいしかない。
でも、みんなテキパキ動いてくれて、特にトラブルもなかった。
全体の調和がとれている。
お互いに緊密ではないが、コミュニケーションを十分にとっている。
できることをする。
できないことは、人にお願いする。
それを、講演会当日、皆が、現場で無理なく、自分ができるお互いを思いやりながら、テキパキと動いている。
個が自立していないと、他者に依存的になる。
そうすると、どうなるか。
コミュニケーションを緊密にとって
自分と感性が合う、自分に共感してくれる人を探す。
仲良しグループができると、安心する。
でも、本当に困ったときには、
「それは、専門家に相談した方がよい。」と投げ出されてしまう。
自分で責任がとれないと。
一人一人が自立していると、
お互いに無理に緊密にコミュニケーションをとる必要はない。
ただ、困っている人がいたら、おせっかいと言われような何しようが
助けたい時には助ける。
そして、自分ができないときには、人を相談する。
チーム全体で支え合う。
そうすると、お互いが依存ではなく支援できる。
お互いを尊重するが故に、良いチームができるのだ。
これは何も会社や組織に限ったことではなく、地域の輪
のことなのだと
この本を読んで、再確認した。